Home > 冨田 涼
2023.10.03

「蔡國強 宇宙遊 ―〈原初火球〉から始まる」展

火薬を使ったパフォーマンスで有名なアーティスト。
展覧会で展示されているのは、火薬を使って作った絵画のような作品と、パフォーマンスの構想を描いた作品(企画書のようなものもあるが、ちゃんと火薬を使ってイメージを描いてあり、作品になっている)。

蔡國強の父親によるマッチ箱へのドローイング


冒頭「火薬を使用したのは、若い自分が、社会的統制に対して反発心を持っていたからでもあるでしょう」と書かれていた。

彼はずっと日記を書いているようなので、この言葉は嘘ではないだろう。
そんな彼が北京オリンピックの開会式で花火のパフォーマンスを行ったのはなぜだろう。展覧会でもその時のことは展示されていて、オリンピックのあと「私には体制協力者というレッテルも貼られてしまったのです」という記載があった。このころ、彼は体制に対して反発心は失っていたのだろうか。この疑問に対する答えは提示されていなかった。

今回の展覧会では、上記のように、作品ごとにアーティスト本人による説明がついている。こんなに作品について懇切丁寧に説明している展覧会はあまり観たことがない。
モダンアートといえば、鑑賞者に作品を提示して、鑑賞者がそこから問いを発見する、というのが定番のやりとりだ。蔡國強がことこまかに説明をするのは、彼の活動の根底にあるのが、コミュニケーションだからだと思う。

《歴史の足跡》のためのドローイング

作品の多くは「外星人」からも見えるように、という意図がある。だからスケールが大きい。「外星人」というと「シン・ウルトラマン」を思い出すが、蔡國強が想定している「外星人」はどういう存在なのだろうか。火薬というと破壊を連想する。

アーティスト自身は必ずしも破壊というニュアンスではとらえていないようだが、「《歴史の足跡》のためのドローイング」という作品などは、長い年月を経て形成された文明が一瞬で破壊される、というイメージを受け取った。そういった、社会に対する危機感などを火薬を使うアートで表現しているのだと思う。最近ではいわきでのパフォーマンスが話題になっていた。会場では、いわきとのつながりが紹介されていた。こういうこともあって、コミュニケーションというものをテーマにしている作家なのだ、という印象を持った。サン・ローランが作成した動画が圧倒的だったので、リンクを貼っておく。ハンス・ジマーっぽい音楽がまた良い。

https://www.youtube.com/watch?v=I2uIi0GT8Qg

2023.04.18

大竹伸朗展

大竹伸朗のことは村上隆のインタビューで名前だけ知っていた。
村上隆は学生時代に大竹の作品を見て、ずいぶんとインパクトを受けたようだ。

大竹の作品は「記憶の集積」なのだと思う。時折ふと思い出す過去のイメージだけでなく、スクラップブック、どこかで拾ってきたもの、記憶に残っている音、など、広い意味での記憶のことだ。

記憶は堆積して、コラージュのように合体し、変形・変色する。それが大竹の作品なのだと思う。記憶は可視化できるのだ。
このアイデアに触れて思い出したのはジェフ・クーンズの「ラビット」だった。「ラビット」は空気人形のウサギをモチーフにしている。デュシャンの「泉」が捨てられた便器にいくら値段をつけるか?という問いに対して、「空気だったらいくらになる?」という回答を返したわけだ。その流れでいくと、大竹の作品は「記憶にはどのくらいの値段をつける?」というアンサーなのだと思う。
抽象的で個人的な「記憶」を、可視化して販売する、というアイデア。ここに大竹のオリジナリティがあると思う。
記憶とは、そういうものかもしれない。蓄積して、発酵して、変形する。自分だけのものだと思っていても、実際には他人から聞いた話なども混ざっている。それでも、集合体として見た場合、それは人それぞれ違う。

雑誌や新聞の切り抜きや、写真などをべたべた貼りつけたスクラップブックは、
大量に出回っている素材を使っているが、スクラップブックそのものは、作った人の個性がにじみ出る。
今の時代は紙のスクラップブックを作る人は珍しいかもしれない。しかし、instagramやgoogle photo、evernoteなど記憶を集積するツールはたくさんある。大竹はそれをアートとして表現した。そこに彼の斬新さがあったのだと思う。

2022.11.28

静嘉堂文庫美術館

丸の内に移転した静嘉堂文庫美術館。

移転により、二子玉川の頃よりも格段にアクセスがよくなった。
すばらしい美術品を気軽に観にいかれるようになったのはうれしい。反面、緑豊かな空間で落ち着いて作品に触れるという良さは失われた。どちらがいいのか判断が難しいところだ。

展示品に話を戻すと、もちろん目玉は曜変天目。何度も観たけれど、やっぱりいいものだ。あくまでも主観だが、あの青はフェルメールの青と同じじゃないかと思う。ちなみに曜変天目は二子玉川のときみたいに自然光のほうが映えると感じた。
源氏物語関屋澪標図屛風などもやっぱりすばらしかった。

丸の内といえば、東大のインターメディアテクも近いので、はしごできるのも魅力のひとつだと思う。

2022.07.04

ゲルハルト・リヒター展

リヒターの実物を見たことがなかったので、楽しみにしていた。
想像以上におもしろい展示で、ドイツ現代絵画の最高峰と呼ばれるだけはあると思った。

今回のみどころは、「ビルケナウ」という作品であった。
アウシュビッツの捕虜収容所の隠し撮り写真をもとに、リヒターが抽象画を描いた。三枚の抽象画が壁に掲げられている。反対側の壁に、その抽象画をプリントしたものが展示してある。それぞれの作品が展示してある横の壁は全面鏡になっている。つまり、0、現実のアウシュビッツ、1、隠し撮り写真、2、抽象画、3、抽象画のプリント、4、鏡にうつるそれらの作品、という4段階の反復・模倣が行われている。

芸術は現実の反復・模倣であり、さらには反復・模倣を繰り返すうちに情報は劣化し、そこにこめられた感情は消え落ちていく。
もちろん、リヒターはアート全体を現実の劣化版の模写でしかない、と訴えているわけではなく、現代がそういう時代だといっているのだろう。

救いのない作品ではあるが、モダンアートとはおおむねそういうものだ。それぞれの作家が知恵を出して、とんちを仕掛ける。作品のコンセプトを読み解いて、その表現のたくみさを楽しむ。

こういう展示を見ると、世の中にはまだまだおもしろいものがあるのだと思う。

2022.02.08

春日神霊の旅 ―杉本博司 常陸から大和へ

会場入り口

金沢文庫にて、春日信仰をテーマにした展覧会が開催されていた。春日信仰に興味があるというよりは、杉本博司がかかわっているということで興味があった

杉本博司の入口は江之浦測候所だった。広大な敷地にそれぞれに時代を経た自然物や建造物が収集されている。それは博物館のような陳列ではなく、むしろ大名が作る風光明媚な庭といった感がある。そのため、杉本博司については、写真家、美術家というよりは、風流人といった印象が強い。

その杉本博司が手がけた春日信仰についての展覧会。

展示内容は興味をひかれるものが多くあった。
とくにおもしろいと思ったのは、鎌倉時代につくられたものに、杉本博司が手をくわえた作品。時代を経たものに手をくわえるという行為が、歴史的な遺産を作り変えてしまうということにはならないのだろうかとも思う反面、破損したアイテムを修復し、あたらしい価値を与えるという行為として考えると、それはそれでありなのかもしれないと思った。破損した信仰の対象に手をくわえることによって、現代によみがえらせる、つまりは信仰を引き継ぐ行為ともいえる。
単純な修復という選択肢もあるが、手をくわえて作り直すという発想は、展覧会での出品作品としては斬新な発想で、個人的には好ましく思った。

2021.09.09

坂本龍一+高谷史郎《water state 1》

東向島でおこなわれたインスタレーション。
内容としては、会場の中央に水を溜めた装置が設置してあり、天井近くから落ちてくる水滴が波紋を作る。会場には環境音楽が流れていた。1セッション30分程度のシンプルな内容。
もともとは、坂本龍一が東向島でインスタレーションを開催するという組み合わせに興味をおぼえて足を運んだが、いってみると 展示そのものもよくできていた。

装置に張った水は隅田川の水だそうだ。
天井近くからぽたぽたと水が垂れてきて、波紋ができる。それだけではあるが、全体を見てもいいし、水面の一部を眺めていてもいい。水面は常に変化する。そしてその変化にはパターンがない。この流動的で不確実というところにこのインスタレーションの面白さがあると感じた。

装置の周囲には石が置かれていた。
これは庭を意識しているのだと思う。
個人的には禅寺を連想した。このインスタレーションには禅的な空気があり、日本人の作るアートとして、特徴を打ち出すことに成功していると感じた。

この会場内で流れている坂本龍一の音楽は、先述のように、環境音楽的なものであり、メロディのあるものではない。こういう耳に残らない、その場の空気を醸成するような音楽も作れることを知り、改めて坂本龍一の音楽的才能を認識した。

2021.04.19

レヴェナント: 蘇えりし者

「レヴェナント: 蘇えりし者」は、アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督が2016年に撮った作品でアカデミー賞もいくつか受賞している。

内容はいちおう西部劇ということになるのだろうか。
1923年アメリカ。西部開拓史時代。罠猟師のヒュー・グラス(レオナルド・ディカプリオ)が、あることの復讐のために、ジョン・フィツジェラルド(トム・ハーディ)を追う、というもの。

アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督は「バベル」「バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡) 」を観た。社会的なメッセージを、巧みなプロットで提供する監督という印象がある。本作を含めて3作品を観た印象では、イニャリトゥ監督はいつもよそものとしてハリウッドにいて、その心理を作品に反映しているように感じる。
本作で、ディカプリオが演じるグラスは、ネイティヴアメリカンの女性との間にこどもを設けた男であり、罠猟師の仲間のうちでも、そのことをよく思っていない人間もいる。要するによそ者なのである。
「バベル」では誰もが異邦人であったし、「バードマン」でも、ブロックバスタームービーの「バードマン」役で人気を得ていたマイケル・キートンがブロードウェイで栄光を取り戻そうとしながらも、舞台俳優たちからは「ハリウッドスターに本物の演技など語れない」と忌み嫌われるのだった。

「レヴェナント」に話を戻すと、テレンス・マリックの常連撮影監督エマニュエル・ルベツキが撮影を担当しており、作品の成功に貢献している。ルベツキの映像は、美しく、かつ挑戦的だ。どこまでが自然で、どこまでが加工なのかわからない。
テレンス・マリック監督の「聖杯たちの騎士」では多種多様な撮影技術を投入していたが、本作では大自然をいかに撮影するかという点に腐心している模様。とはいえ、技巧の限りを尽くしているのは観るとわかると思う。

このように、いろいろな点でみどころがあり、深堀していくと面白い作品である。

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